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妊娠映画
パスカル・フェランの『a.b.c.の可能性』ですけど、これって今の時代の「妊娠映画」なのね。
妊娠ってのはconceptionで、つまりは概念を受胎することも含めての「妊娠」なんですけど。
映画の前半はなんやしらんたらたらたらたらかったるい場面が続いて少なくともてめえらフランスの青春映画なんだろっ!これでいいのか!?って怒鳴りたくもなるのだけど、中盤過ぎ俄然もりあがりなるほど構成が見えてくる。
となるとたるくてたまらん前半部分も逆から照射されてきて、このあたりはまーゆーたらたらたらつづく日常のコンドームつき性交みたいなもんでつまりは「避妊」してるのね。
そのことはヒロインの一人があけすけに喋るタンポンの「スーパー」「レギュラー」の話とか(これは女の子にはわかるわかる)、ミニテル(パソ通)で知り合った男との盛り下がりの一夜とか、子供が欲しい妻と欲しくない夫のちぐはぐ夫婦とか、いちいち場面場面で知らされる、なんか登場人物らがいくらじゃれあってても、からまることのないからみ、交通の行なわれない交通、薄いゴム膜を通しておこなわれる触れ合うことのない性交なのだ。
で、そのたくさんの触れ合わぬ登場人物らが、中盤過ぎそのちぐはく夫婦の主催するホームパーティーに集うシーン。ここから(実際にはその前あたりから)俄然盛り上がるのです。
そこでそれまで別のルートで知ってた人が思わぬ知り合いの知り合いだったりとか友達の環がつながってることが明らかになったりもするのだけれど、そのパーティ会場を往来している人々、止まったり座ったり話したりダンスしたり歌ったり電話したり来ない人がいたり待ってる人がいたり、そのあたりの動きのまちまちかげんがビーカーのなかにぶちまけられた精子のブラウン運動というのかなんつーのか、止まってる同士が偶然惹きあうように見えるだけのように別にそうではなかった筈なのにくっつきあう同士がいたり、それまでうまくいってた筈なのが運動パターンが合わないのがわかってしまうカップルがいたり、つまりここは「人工授精」の場面なのですよ。
監督がそれまでピペットかなんかつかって採取してきた1個1個の駒をしっかり使い切っててその動作の計算がすごくうまいのね! しかもそのパーティーの最も盛り上がる部分でヒロイン二人が歌うのが『ロバと王女』(ジャック・ドゥミ)の主題歌と来てる!
そして、作劇術的にはなんか付け足しのようにも見えないでもない最後のエピローグめいた1年後の風景いろいろなんですが、もちろん妊娠したくてたまらなかった女性は最も端的にそのビーカー内で偶然みたいにくっついた別の男より妊娠してるわけです。
そして、あと2例の妊娠は「言葉の受胎」であります。ひとつは、パーティーに来なかった女(ビーカーから距離をおいた)から来たる「手紙」でして、これは手紙の文字エクリチュールそのものが読んでる男および観客の目と耳を射るように生きてる動く言葉として迫ってくる。そしてもうひとつはミニテル男が再び電話で再会を呼び掛けて会う場面なんだけどそのときの男のセリフがなんつーのか透明度において以前と全く異なっていてその喋ってることの内容はあほらしいくらい単純きわまりないのにフランス語なんかわからないはずの私にこれまたぐさぐさ身に突き刺さってくる迫力なのね。
ところで言葉が見ている者の体に突き刺さるように感じられるのは何をおいてもストローブ&ユイレの作品たちで、彼らの出自がフランスでもないドイツでもないちょうどその中間地帯に位置するあたりにあることがけっこう大きいことは浅田彰氏が指摘していたけど(そのトポロジーを共有しているのはもちろんゴダールであるわけなのですけど)、この映画の舞台のストラスブールもまさしくその中間地帯の帯のなかに入っていて、ま、そりゃストローブ&ユイレやゴダールに較べちゃ可哀想なんだけど、たぶん作品の中でその言葉/音のほうをつかさどっているユイレのセンスをちょっと受け継いでるところはあるかな…という感じを抱きました。
同時代的にはこの人『魂を救え』の共同脚本やってるし、アルノー・デプレシャンと共有するスタンスがあるのかもしれない。群像劇の駒の動かし方のうまさ空気の膜というのか煙幕というのかの張り方のうまさなどが共通かな。でも結果できあがった映画は感触的にはずいぶん違いますね。
『ロバと王女』未見なのが恥ずかしい。しかしミシェル・ルグランのこの歌は何度も聞き覚えがあります。これ歌ってるのは、『シェルブールの雨傘』でカトリーヌ・ドヌーブの歌の吹き返してた人と同じ歌手ですか?
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