WinK Cine Club特別企画

10月25日ラウル・クタールさんに会ったぞ!


 去る10月25日(土)、ジョルジュ・ド・ボールガール特集で初来日されている、ヌーヴェル・ヴァーグ伝説のカメラマン、ラウル・クタール氏の大阪でのトークショーが開かれました。

 先にも書きましたが、私はシネ・ヌーヴォの松井寛子さんのご好意で、トークショー終了後、スタッフらでクタールさんと鍋を囲む二次会に闖入させていただきました。思ったよりたくさんの人が来ていたのですが、わたしときたら図々しいことにクタールさんの真横の席を確保し(もひとつの真横は通訳の女性)、宴が終わるまでびったーっとそばにひっついて、怪しいフランス語でおしゃべりしておりました。もう幸せで幸せで、身も世もなく舞い上がってしまって(“あられもない姿”というのは、あのときの私を言うのであろう…恥ずかしい)、何を聞いたかホトンド頭から飛んでしまっているのですが、とりあえずのレポートです。

 ラウル・クタール氏は73歳の高齢ながら元気元気。写真で見る若いころの精悍さは、鋭い眼をのぞいてむしろ少年っぽさに変化していたように思えましたが、白髪でお腹の出た体型でとてもチャーミングな方でした。

 浜村淳氏との対談は、大阪市から押しつけられた人選らしいのですが、やはり間違っていたとしか言いようがないですね。芸人根性というのか浜村さんは、アラン・ドロンと会ったときのエピソードやら大島渚、溝口健二などの日本映画の話やら、自分の得意なほうばかりに話をもっていって長口舌を繰り広げるのですが、それよりもクタールさんの話を聞きたい!観客のイライラを誘っておりました。

 クタールさんの印象は、芸術家というよりは職人肌。監督との仕事のことでは、「カメラマンは監督がこう撮りたいと思った画を撮るのが仕事である。意見を求められれば自分の意見も言うけれど、最終的に決めるのは監督だ」みたいなことをおっしゃってました。「監督とのコミュニケーションが問題で、“夜”を撮ってほしいと一口に言われても、では、全く光のない真っ黒の空間を撮るのか、わずかな光のある闇を撮るのか、闇をきわだたせるような明るい光を撮るのか、全くちがう」と。
 また、常に革新的なことを試みてきたことへの自負ももっていらっしゃるようで、たまたまトークショーの前に上映があったのはジャン=ピエール・メルヴィルの女×女、女×男の痛快な愛の活劇といった風情の『モラン神父』だったのですが、そのカメラをやっているアンリ・ドカと自分との違いを問われて、「ドカはたしかに美しい画像を撮る優れたカメラマンだが、あまり革新的なことはしていない」みたいなことを言っておられました。ヌーヴェル・ヴァーグがそれほど長続きしなかったのも、クロード・オータン=ララのように古いフランス映画への反抗・革新としてヌーヴェル・ヴァーグは始まったのだが、カイエ・デュ・シネマに集った「ギャング」一派をそう称しただけで、ヌーヴェル・ヴァーグも決して一枚岩ではなかった。真に革新的なのはゴダールくらいのもので、トリュフォーやシャブロルなどはむしろ昔ながらの映画を撮っていた、と。
 filmとcinemaのちがいはそうした文脈から出てきた話で、ゴダールはcinemaを撮ったが、トリュフォーはfilmを撮った。そこでいうfilmとは、昔ながらの手法、構造に則った映画作品なのだということでした。

 二次会では、そうやなあ…そんな大した話はしなかったのですが、まずフィリップ・ガレルの『愛の誕生』がとても美しい白黒映画であることについての想いの丈を述べると、どこまでわかってくれたのかわかんないけど、白・黒・灰色の象徴的な使い方には触れず、白黒映画はいまとても難しい。ラボがみなカラーに慣れてしまっているから、思う通りの白黒を出すのがとても難しいという話と、『愛の誕生』ではジャン=ピエール・レオをはじめ俳優たちがみな素晴らしかったことなどを話しておられました。
 ガレルとは“Le Coeur Fantome”という新作を撮っていらっしゃるのですが、誰かが病気だかなんかで完成していないとおっしゃってました。なおかつ「あの映画は面白くない。役者が下手だ」と歯に衣着せぬというかなんというか…。
 ほかに1994年制作で“Faut pas rire du bonheur”という映画もあり、監督はギョーム・ニクルーという私の知らない(周りにも知ってる人はいなかった)監督なのですが、これまでに監督した3本の作品のすべての撮影をクタールさんに頼んでおり、クタールさん自身は「あれは頼まれたからやった」、「シナリオを読んできちんとしていたから」ということでした。
 「歳が歳だから、これからはもう仕事しないよ」と言いながら、「仕事を選ぶときにはまずシナリオがきちんとしているかどうかを見て、次に役者がいいかどうかを見る」と、まだまだ元気に撮り続けてくれそうですね。
 若手の監督や撮影監督で注目しているのは誰かという問いには、私は名前を覚えるのが苦手で…と言いつつ、『リヴァー・ランズ・スルー・イット』を撮った撮影監督=フィリップ・ルスローの名前や、エリック・ロシャンの名前が出ていました。

 昔話の類では、誰かがゴダールの映画における音と映像について質問したのですが、『勝手にしやがれ』『小さな兵隊』まではアリフレックスの旧式のでかい重いカメラを使っていて、音がものすごいので、同時録音が大変だったこと、またゴダール氏がシナリオを使わず、その場で役者にセリフをつけていくので、録音技師も記録係も大変だったこと、旧式のカメラでは(そのあたり、アリフレックスのなかでも機種の違いがあるみたいなこと言うてはったが、残念ながら聞き取れず。『はなればなれに』はアリフレックス3とか言うてはったな…)視差(parallax)があってファインダーから覗く像とフィルムに写る像が異なり、口の動きが微妙にずれてしまうこと、それで、『勝手にしやがれ』で、最後近くジーン・セバーグが密告電話をかけるところの撮影には苦労したような話をしておられました。『女は女である』からはより軽い、手持ちのミッチェルというカメラになり、だんだん楽になっていったということです。
 『パッション』撮影時のエピソードでは、あれはカメラマンが二人(ロケ撮影とスタジオ撮影)いるのだが、何十kmも離れたところからスイスのカメラを取り寄せ、スイスのカメラマンに撮らせたり、クタール氏には「君はフランス人だからフランスのカメラでいいだろう」みたいなことを言ったり、なんだかややこしいこと続きで、ゴダール氏は撮影中ずっと機嫌が悪かった。あるとき撮影中に何かのすさまじい騒音が入ってしまってセリフが取れず、当然そのテイクはNGとなった。再度のテイクでまたまた騒音が入ってしまい、クタール氏が思わず「カット!」と叫ぶと、ゴダール氏は「俺の代わりにカットを言った奴はどこのどいつだ! 今度やったら叩き出してやる」とか言ったとか。クタール氏曰く「ゴダール氏はちょっとのことですぐカッとするから、刃向かってはイケナイ」。

 あとはうだ話のたぐいかな…。日本では鎌倉、奈良、京都など、古い街の古いものを見て回るのが楽しみだとおっしゃってました。そうそう、インターネットについてもいろいろご存じでしたね。最後には「映画のカメラマンなんかになるんじゃなかった。もっと金を稼げる職業はいろいろあったのに」とか冗談めかして言っておられました。プロデューサのなかでジョルジュ・ド・ボールガール氏は最初カメラマンにはあまりお金を払ってくれなかった、ピエール・ブロンベルジェ氏は払ってくれた、みたいなことを言っておられましたね。
 宴がはねて最後の挨拶を求められ、「あと20歳若かったら『愛のコリーダ』のような世界がほんとにあるかどうか確かめたかった」とかおっしゃっていました。シネ・ヌーヴォの景山さんが「ではこれから近くの遊廓(『悪名』に出てくる松島新地)にご案内しましょうか」と言うと、「いやいやあと20歳若かったらの話です」と。
 ちゃんとお話をテープに録っておくとかしとくべきだった…少なくともまともな質問を用意しとくべきだったと反省しきりでしたが、とにもかくにも幸せな幸せなひとときでありました。
 後で配給会社の人が、「今日はクタールさん、すごくうれしそうな顔をしていらっしゃる」って言ってくれたのが、救いだった…。

 私の聞き取り力不足と記憶力不足で、間違いも多々あると思われますので、これは間違いでは?と思われることは、どうぞご指摘ください。
jaja(1997年10月29日)


良かったですねえ〜。羨ましいぃ〜・・けどフランス語が全くわからない故、行ったら行ったで、悲しかったかも・・。

 うーん、「カメラマンは芸術家というより職人」というのは小津監督の所のカメラマン(厚田雄春さん)もおっしゃってましたねえ。
 やはり監督の思い通りの画を撮れる人って職人に近いんでしょうね。
 ゴダールのエピソードには笑いました。本国フランスでも不人気のゴダールらしいけど、やっぱり偉大だ!

 ヌーヴェルバーグの落とし子たちが、すでに高齢の域に達してきている(あるいは死んじゃってる)ってのは寂しい。そう考えるとやっぱ、会えて話せて良かったですよねえ!
F 真子(1997年10月31日)


ヴェンダースの小津賛映画『東京画』に出てくる厚田さんの姿は素晴らしかった!

サミュエル・フラーが亡くなりましたね! ショック!
ほんとおじいちゃん映画作家には、会っとくべきです。
jaja(1997年11月1日)

                       


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