映画についてあれこれおしゃべり

アイズ・ワイド・シャット


珍しくお盆に街中に出かけて避暑かたがた初試写の
5日後に亡くなったスタンリー・キューブリックの
最後の作品「アイズ・ワイド・シャット」(1999年 アメリカ)
をみました。R−18指定、2時間39分。

若い人が多かった。たぶん最もハリウッド的なメジャーな
カップルが夫婦役で主演していたからでしょうか?
その後出向いたウイングス京都で真子ちゃんにバッタリ!
「へたくそなトム・クルーズの演技にイライラ、そしてこの映画に
ついて何も触れられていないパンフレット。半額金返せ映画(笑い)
だったよ〜]と愚痴ってました。
真子ちゃんはこの夏また、命を掛けるイベントにご参加とか!?

その感想ですが、わがHPとダブル記載で失礼します。

 NYの裕福な内科医をトム・クルーズ、
結婚9年になる美しい妻を実生活でのパートナーでもあるニコール・
キッドマンが演じる。パーティーに招かれて出かける準備を
している2人のシーンなどはびっくりするほどリアリティーがあって
プライベートを覗き見るよう。これから始まる夫婦の性愛映画の
プロローグとしては成功している。

演じているのが実夫婦と言うことが観客にはわかっている
からこそ、見てはいけない2人のプライベートを見ているような
錯覚に襲われる。これはキューブリックのたくらみなのだろう。
最後までこの「たくらみ」につき合わされることになる。
この「たくらみ」は私の世代だと興味深く気長にお付き合いできたのだが、
若い世代には退屈だったかもしれない。私だって先を急ごう!
と何度も言いたくなるほどだっだから。

 妻の性的妄想に嫉妬する夫。妻はいつも自分と
こどものことだけで頭がいっぱいだと思ってるのだろうか?
そんなお目出度い一方的な考えって、それこそ夫の幻想だ。
性的想像力と幻想、あるいは妄想って妻にも必要なのよ。
それがなければ夫婦の長い午後はやってられないって!
妻はそれを正直に告白しただけ。

 男は妄想を妄想にしておくことが出来ない困った生き物
なのだ。妻の告白のおかげで嫉妬と妄想に駆られてむしろよかったのでは?
やってみなきゃということになる。
医者のステイタスに寄りかかかり、魔が差して性の狩人たらんとして
見事失敗するするヤッピーさんのトム・クルーズ。
キッドマンは女としての美しさに自信があるからこそ、
夫に衝撃的な告白をしてしまうが、自分では何も出来ない医師の妻。
どっちもどっちのご夫婦を2人は満足して演じている風だったな〜。

それにしてもトム・クルーズって何という大根役者。
ヤッピーのスノッブさに辟易させられるあたり、
まさか彼の演技力のなせる技ではなかろう。

 「私はこの映画で、幸福な結婚生活に存在するセックスに
ついての矛盾した精神状態を探り、性的な妄想や実現しなかった夢を、
現実と同じくらい重要なものとして扱おうと試みた」という
キューブリック監督の製作意図は充分にわかったが、
でもこのオチってちょっと苦しいなあ〜。
最後の「裏切り」的オチは明かさないでおこう。
陳腐ながら全うな(笑い)セリフで幕!
よかった、よかった??アメリカ的だな〜。

K 明美(1999年8月14日)

ひえ〜わたしはあのトム・クルーズはすごーくよかったと思ってるんですよ!
(ニコール・キッドマンよりずっと良い)

キューブリックにとって女は最後まで謎に満ちた(都合のよい)他者だったのねーって感じの映画ではありましたが、すごくおもしろかったです。
ちょっとこのところばたばたしててこれも感想ちゃんと書いてなかったんですがあらためて書きます。

それと、パンフもう出てたのですね。わたしが行ったときはまだ入荷してませんでした。
公開日に間に合わなかったパンフレット・・・。
しかしそんなに内容ないんじゃわざわざ買いにく必要もないな。

jaja(1999年8月15日)

 私は、非常に面白かったです、この映画。

 妻が、子供に勉強を教えている、目が合って微笑む、そういった家庭団欒のよい夫婦であればあるほど、その夫婦の間のセックスが つまらなくなるという矛盾。
 それを打破していこうという物語であれば、単に刺激を求めて云々の映画になるのですが、そうではないところに 面白さがありました。

 もともと私は、ニコール・キッドマンが 好きで、それは一昨年かな、アカデミー賞での、二人を見たからです。
 
 ひなたの花のような輝くばかりに華のある トム・クルーズと「結婚」して、並んでいるこの女性。際立った個性もなければ、メリハリの利いた身体でもなく、愛らしいしぐさも持たない この人が、それでもトム・クルーズより 一枚も二枚もうわてに思えました。
 『ザ・エージェント』の場面が映され、喜びのクルーズの 握っている手をポンポンっとたたいて、「よかったじゃない」と言ってる様で、余裕のような大人のようななんだかよくわからないけど 「すごい人だわ」と思ったのです。

 映画は、変わったカメラアングルとかじゃなく、正面から正統で、かといって大御所の重厚美でもなく、それだけに いやにこの夫婦の日常が リアルで、さすがは キューブリックだと思います。

 全編 セックスシーンに満ち溢れているのですが、クルーズとキッドマンのシーンは 全然色っぽくなく、クルーズが妄想する、キッドマンと他の男とのシーンは、本当にエロチックで なるほどなあと納得してしまいます。

 あと、これは、私のうがった見方だとは思うのですが、クルーズが、ホモセクシュアルじゃないか、ということを どうも暗示しているように思えてならなかったのです。あるいは、この人は、道徳的な男と女のありかたにしばられているのでは、とも思いました。

 ま、それはさておき、きれいなきれいな女性がもう 惜しげもなく裸体をさらしてくれていて、そのあたりは 「得した」感がありました。
 それと、出てくる女性が皆 本当に美しい。その美しさはこれでもかといえるくらい 外面のみの美しさで、モデル系の美なんです。
 キューブリックって、ヒッチコックと同じで 女の人に 美しさしか求めてないのかしら とも思っちゃいましたが、美しい女たちが それに気づかない振りをして ブリッコするのじゃなく、ちゃんとその美しさを武器としているのに 好感持てました。

 いずれにせよ、これほどの監督が亡くなってしまったのが、本当に残念で、少し泣けて来ましたが 妹に言うと、「まだええやん、この作品が遺作やねんから。黒澤のこと考えてみ。」と言われました。

ふぁっちゃいM(1999年8月16日)

わたしは、もうひとつこの映画よくわかりませんでした。
なにがいいたいのかよくわからないです。
医師のようなかたい仕事してる人たちって、夜、秘密の遊びに走るのかしら?
ああいう場所や、ストリートガールのところへ行ってみるものの、結局は、
妻がいいってこと?
妻の方もいろいろ想像や夢に苦しめられるけど、やっぱり夫。
でも、最後の永遠って言葉はきらい、と言ったことが印象的でした。

At 2:20 AM +0900 99.8.16, piro wrote:
>  全編 セックスシーンに満ち溢れているのですが、クルーズとキッドマンの
> シーンは 全然色っぽくなく、クルーズが妄想する、キッドマンと他の男との
> シーンは、本当にエロチックで なるほどなあと納得してしまいます。

もっとエロチックなのを期待していったのに、それはちょっとがっかり。

>  ま、それはさておき、きれいなきれいな女性がもう 惜しげもなく裸体を
> さらしてくれていて、そのあたりは 「得した」感がありました。
>  それと、出てくる女性が皆 本当に美しい。その美しさはこれでもか
> といえるくらい 外面のみの美しさで、モデル系の美なんです。

ほんとに美しいですね。
それでエロチックじゃない。

少しでも近づくように、
さー、ちょっと腹筋しよう!
無理か〜。

T 尚子(1999年8月16日)

この2、3日ネット縁の面白さにはまってしまって、です。
好きな男縁ではなくって、女縁ではございますが(笑い)。
どのMLに書こうかと思案の末、やっぱりWCCだと相成りました。
端的に言えば「フェミニズム文学評論」の話題かしら?

話せば長いんですが、松本侑子さんの作品で、グリム童話のフェミニズム批評であり
パロディー本『罪深きお姫様の童話』(角川文庫)をめぐる「盗作問題」に関連して
ブックアドバイザーでもあり、松本さんの作品を拙著でも取り上げている
私としてはペンをもつものとして、桐生操著『本当は恐ろしいグリム童話』
(KKベストセラーズ)に対して強い不信感を抱き、松本さんに先日
応援のメールをお送りしたご縁で松本HPに私のコメントおよびHPにリンクが
張られました。

そこで同じく応援メールが掲載されていたグリム研究家でもある前述の
池田香代子さんから私、Kに「同志よ!」と呼びかける連帯共感の
メールが3日前に届いたと言うわけです。

池田香代子さんはベストセラーとなった『ソフィーの世界』の訳者でもありますが、
ドイツ文学者で翻訳家の池田さんは例のキューブリックの
「アイズ・ワイド・シャット」の原典となった世紀末のウイーンの
アルトウール・シュニッツラーの『夢奇譚』(文春文庫)の
訳者でもあったのです。
その情報をくださったのは、我らが翻訳家、Y利子!

この間のオフ会で「こっち、こっち」とお隣の席に座ってもらったのは
実は私には魂胆あったのです(笑い)。翻訳業界の情報収集のため。

Yさ〜ん、池田さんの最新情報をありがとうございました。
おかげで池田さんと思わぬ興味深い文学批評のメールをやり取りすることになりまし
た。
また、翻訳家の威信を掛けた「ミリ単位のことでしのぎを削っている」(池田)
内輪のお話まで聞かせてもらいました。Yさんのご参考になるやも知れません。

そこで池田さんのご了解を得て、我れらがMLと私のHPで
公開させていただくことにしました。とても興味深い内容だったので
私がひとりで読んでおくのはもったいないと思ったんです。
「アイズ・ワイド・シャット」の関連情報として読んでいただければ幸いです。

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池田香代子・文:
     世紀末ウィーンの男の「おうちに帰りたくない症候群」など  
                          編集責任・K明美

 シュニッツラーは、ウィーン世紀末の、洒脱でどこかメランコリックな、女遊びに長けたブルジョワ男を描く作家、みたいに思われてきました。だからドイツ語圏でも、70年代のいわゆるウーマンリブ的視点からは、女の敵みたいにクソミソだった。ところが80年代、フェミニズムリーディングで再評価されちゃった。近代の男の空しさをよくぞここまで描いた、と。
 それが面白いことに、80年代日本のフェミニズムリーディングで川端康成のお株が上がったのと、時期も論調もまったく同じだったのです。二つの動きが連動していた形跡はありません。私のような立場の者が、たまたま知っただけ。日本の川端再評価も、近代日本の男の空しさをよくぞここまで描いた、川端恐るべし、でした。
 
 たとえば、駒子が島村に「あんたなんかなんにもわかってない」と言うセリフ、島村はなにがわかってなかったか、が分析される。『眠れる美女』の、眠らされた若い女性を前にした老人の独白、「ひどいことをするものだ。いや、これしきのことひどいものか。妻や娘にはもっとひどいことをしている」(うろ覚え)がクローズアップされる、といったぐあい(江種満子・漆田和代編『女が読む日本近代文学』新曜社、など)。
 そんなこんなで、いつか女の視点からシュニッツラーを訳したいと思っていたら、キューブリックさんのおかげで、訳すことができました。これは世紀末ウィーンの男の「おうちに帰りたくない症候群」についての小説だと思います。この症候群については、昔、共著の本に書きました(『ウィーン大研究』春秋社)。
 これまでの訳は、男の情けなさなんて描かれているはずはないと思いこんだ訳でした。西欧に対するあこがれやコンプレックスを踏まえ、爛熟、洒脱、いい気なメランコリー、高級深刻ぶり……にしか目がいってないのでした。

 うれしかったのは、キューブリックの視点と私のそれがぴたりと重なったこと。トム・クルーズ(ハリウッドの三浦友和、あんたがいい人だってことはよーくわかるよ!)の舞台挨拶からは、自分の存在をそっくりスポイルしてこれを撮り、逝ってしまった監督への畏れと尊敬と絶望が、ありありとうかがわれました(私、高校の時から映画少女。いまは少女ではないけれど。字幕も、『ベルリン・天使の詩』とか、少しやってます)。

 ここからは、シュニッツラーの翻訳較べです。このたび、映画のおかげで、先行の池内紀他訳『夢小説』(岩波文庫)に加えて、尾崎宏次訳『夢がたり』(早川文庫)そして私の『夢奇譚』(文春文庫)と、3種類がそろいました。あと、角川文庫からも昔むかしの訳が出たけど、まだ見てない。  タイトルからしていろいろ、まちまち。原題は、Traumnovele。Traum は夢だけど、問題は novele。まあ、「小説」なんですが、もとはボジョレ・ヌーヴォーとかいうときの nouveau と同語源で、口承文芸のジャンルでは「新奇な話」という意味。だから私は、「奇(めずらかな)譚(はなし)」としました。
 取り上げるのは、主人公が妻の夢の話を聞いた翌日の夜の彷徨の場面です。彼はカフェの新聞で「謎の美女」の自殺を知ります。ちなみに映画では、カフェには場違いなモーツァルトの「レクイエム」が流れて死を予感させ、主人公はカプチーノを註文します。ところが、あの秘密パーティの正装であるフード付きの僧服は、カプチン会修道僧服、つまりカプチーノの服だったのです。キューブリックの映像はナーヴァスなほど有機的で、いやになってしまう。

ほっておけばなぜわが家ではなくてまるで正反対の方向に足が向かうのか、フリードリーンにはわかっていた。いまはアルベルティーネに立ち向かいたくない。立ち向かえない。(中略)--アルベルティーネが寝てしまったと確信できるまで、なんとしてもわが家には--なにが「わが家」だ!--帰らないぞ。フリードリーンはカフェに入った。市庁舎にほど近い、落ちついた高級店。家に電話を入れる。夕食は待たなくていいと、言うなり受話器を置いた。アルベルティーネまでが電話に出たりしたらたいへんだ。
(池田香代子訳『夢奇譚』文春文庫)

 シュニッツラーが男のカッコつけを自虐的に書いた典型例の一つです。男の弱気を
強調するため、私は「立ち向かう」を使った。「会う」(早川)は日本語としておかしい。だって、自分ちで「妻に会う」? ヘンだよ。「顔をあわす」(岩波)は、まだいいけれど、否定形の「顔をあわせられない」となると、ちょっと違う意味になりません? 面目ないとか、あわせる顔がないとか、そういう方向にいってしまう。とにかく「立ち向かう」に較べたらニュートラルだ。従来のシュニッツラー受容の流れで、「男のあはれ」が見れども見えずなのだと思います。ここは「男のあはれ」を汲んであげなくちゃ。でも、私もやり過ぎたかも。増刷になったら、「向きあう」にしよう。 「under no circumstances」(英訳)を最も強調しているのは私。「絶対に帰らない」(早川)「けっして帰るまい」(岩波)「なんとしても……帰らないぞ」(文春)。ここは岩波版のような優位に立った男の決断ではなく、ダダッ子の意地っぱりみたいにしたかった。本当は「帰るもんか」ぐらいにしたかった。
 「アルベルティーネまでが」以下は、直訳調の私がここだけは確信犯的に踏み込んだ訳。男のひるみと強がりを強調したかった。英訳は「Albertina would'nt have a chance to come to the phone」。ひるみと強がりが表現されていると思います。こうしてみると、池内訳は男ならではのバイアスにもかかわらず、やはりうまい。香気のようなものが感じられる。翻訳家なんて(と自分と他の人をいっしょくたにしたら怒られるか)、こんなミリ単位のことでしのぎを削っている。みみっちい職業です。でも、こういうことこそが譲れないのです……。

(参考文献)  

 家へ帰ろうとしているのに、足が思わず反対の方向に向かってしまうのはなぜかということが、やっとわかってきた。妻のアルベルティーネには会いたくないし、会えそうにもない。(中略)--家には絶対に帰らない--"わが家"には!--アルベルティーネが寝たのを確かめるまでは帰らない。  フリドリンは、市庁舎の近くの品のいい静かなカフェに寄った。そこで家に電話をいれて、夕食は待っていなくていいと伝え、急いで電話を切った。まごまごしているとアルベルティーネが出るかもしれない。(尾崎宏次『夢がたり』早川)

 家へ向かっているはずだのに、なぜか足がしらずしらず別の方向へ向いてしまう。アルベルティーネと顔をあわせたくない。あわせられない。(中略)とにかくアルベルティーネが寝てしまっている時刻まで、わが家には--わが家だって?--けっして帰るまい。  フリドリンはカフェに入った。市庁舎に近い、比較的落ち着いた店である。自分を待たずに夕食をはじめるように、伝言の電話を入れた。アルベルティーネが電話口に出てこないうちにガチャリと切った。(池内紀『夢小説』岩波)


                                    文責・池田香代子  
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文中の『ウィーン大研究』春秋社も
江種満子・漆田和代編『女が読む日本近代文学』新曜社も当時既に
読んでましたのでブックアドバイザーの面目が立ってよかったです。
昔取った杵柄ですが・・・。
K 明美(1999年8月30日)

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